焦せらずサボらず、坦々と作業
「たしかに一日をどのように充実して過ごしても、その時間の通過した痕跡を何かの形でとどめてることができなかったら、結局その一日は砂のうえにこぼれおちた水のように、永遠に消え去って、戻ってはこない。十年そのように過ぎたとしても、おそらくその十年の経過は一瞬の夢にも等しい。貴方の苦しみはまずこうした日々の空しさから生まれてくる。それから逃れるには、一日一日と過ぎてゆく時の滴りを、たとえ些細なものであっても、両手で受け取って、眼に見える形として、この地上に残してゆかなければならない。
それは大工たちが堂塔を建立するさまに似ている。一日、大工たちにできる仕事といったら、それこそ眼に見えないほどのものにちがいない。大工たちは木を刻む。柱を削る。木口を合わせる。彫刻師と協力する。こうして一日が過ぎ去っても、そこにはさしたる変化もないにちがいない。
まるで昨日と同じ状態が、今日も続いているように 見える。だが、そうした時の滴りは、一滴一滴と堂塔の土台のそそがれて、ちょうど蝋がとけて滴り落ちるように、すこしずつ、そこに積み重ねられてゆくのだ。それは時間の流れを眼に見えるものに変えて、箱に入れ、しっかり手許にとどめておく様に似ている。堂塔の建立に十年かかったとすれば、そこに、大工たちの十年の歳月が、層層と積み重なり、閉じ込められ、永遠に流失するということはない。
そしてさらに恐ろしいことには、一度こうしてできあがった堂塔伽藍は、それから一年一年と自分の歳月をそこに蓄積してゆくことになる。三百年経過すれば、その三百年の歳月が、その堂塔のなかに蓄積している。
ほかでは三百年の歳月は茫々と流れさって、何の痕跡もとどめぬのに、そこには、歳月が目覚め、生き、私たちに語りかけているのだ。
私たちの日々も、同じように、何かの形あるものに変えて、そのなかに閉じ込めなくては、ただ流失するほかない。だが、ひとたびこうして一日 、一日を、営々と閉じ込めはじめれば、人はいつか十年二十年の歳月さえも、眼にみえる形で、閉じ込めることができるのだ」
辻邦生 嵯峨野明月記から
坦々と焦せらずサボらず作業!
この年齢になって 、この心境になったのは実際遅すぎた感がある。が!それも詮無い。
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