願はくは花の下にて
願はくは花の下にて
今年も、桜の季節がやって来た。此方では明日の日曜日で満開の時期も終わりそうだ。
桜と云えば梶井基次郎の桜の樹の下には屍体が埋まっていると云う怪奇な小説があった。
桜には人の心を狂わせる何かがあるのだろう。
古代日本では花見は秋の紅葉狩りと対の行事であったと民俗学者折口信夫氏述べていた。
春、山から神がおりて来て桜の花を咲かせ、稲や自然に精気を与へ、秋の収穫の後に山へ帰って行く。そのときに山を紅葉させる。我々庶民は桜の花を愛でて花見を行い、秋の紅葉を誉め称え紅葉狩りを行うことで、山の神に感謝をすると云うことらしい。しかし、山で神に出会えば山姥である。その眼に見えない神の力に畏怖を覚え桜を愛でるのである。
現在は、花見は酒宴となり、花を愛でるより響宴に心奪われ自然の神々を讃える様にはなっていないようだ。
平安末期武士を捨て、放浪の歌人となった西行法師は「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」と歌い、本当に桜の咲く時期に亡くなった。
西行の心情は、毎年桜の咲き誇る時期になれば、その桜の歓喜の中にわたし西行が桜の花と共に微笑み居ると呟いているのだろう。
もうすぐ新学期や入社式等など新しい日々が始まる。桜の花を観ると希望と期待がこの年齢に成っても、またそこはかとなく沸き立つ。春だ!桜だ!春だ!
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