春「歓び」に向けて
「ただ一輪の薔薇はすべての薔薇である」リルケ(或いは薔薇を桜と変えて)
今年も桜の季節が巡ってきた。ブログを停止して2年近く歳月が流れ最近になってブログを再開しようと思った。この二年近く物理的にも精神的にも大きな変動が起こり、日々を思索する余裕もなかったことも事実である。
しかし、人生とは面白いと思う。日々平坦な道のりではなく山あり谷あり奈落の底の連続である。
最近、諸々の事情で書籍を大量に処分しようとした時にボッチチェリーの画集が出てきた。
久しぶりに開き「LA PRIMAVERA(春)」を観た時に直感的に混沌と蒙昧を包んだカプセルが突然弾けた様に理解できた。
「一輪の薔薇の中に、人が生まれて死ぬ、また地球が始まり、全てのものが滅びてなくなる時までに咲いた全ての薔薇がある。自分の目の前におかれたこの一輪を本当に愛して、それと一緒に生きることができるなら、全ての生を生き続けるのと同じだ・・・」(辻邦生)
数十年間、制作の根拠を探し求めていた。様々な技法やスタイルにチャレンジしていたが何時までも答えが見つけることが出来なかった。
数年来、美術解剖学を学習している。
知人や妻からは「人体の訓練ばかりやって、作品はつくらないのか」と問われる。
自己に問いかけてみると、人体の研究は造形美術の基礎である。
確かに西田先生のように人体の研究者でも無い!どちらかと云うと制作者の立場にいる。
長年、手慰み程度に制作はしているが、他者の様に没頭して制作しているわけではない。
しかし、最近は辻邦生氏の云う「神的なもの」がこの人体研究に原型としてあるのではないかと、思えてならない!
美そのものが「神的もの」を表すモノの一つではあると思う。がその美を支えているのはヒトではないか?(芸術はどこで生まれるか?ヒトの体で・・布施英利)この強引な自己の意味付けに支えられて未だ人体の研究を続けている。
繰り返し人体図を描き、細部の骨や筋肉を覚えては忘れる!この無限の繰り返しに今没頭している。
「神的なもの」は上記に述べた一輪の薔薇でも桜でも道端の石ころでも何でもいいと思う。
一個のモノを深く思索し追求するとそこには全ての「神的なもの」が現れてくるのではないか。
「神的なもの」とは「善」であり「歓び」ではないか、西行法師が述べる森羅万象の慈悲ではないか?
長年悶々としていた創作の根拠の答えが見つかったと今は言える。
後は繰り返し制作と訓練をやることで「神的なもの」は向うからやって来るだろう。
春に因んで
願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃
西行法師
願ひおきし 花のしたにて をわりけり 蓮の上にも たがはざるらん
藤原俊成
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