ネットで葦ペン画旅行記②
八女にある岩戸山古墳は不思議で謎の多い古墳である。
一番の特徴は石人・石馬の石の造形物。 一般に古墳の埋蔵物としては粘土でできた埴輪なのだが、この岩戸山古墳は石で出来た石人・石馬と文化的に違和感を感じる。
文献によると
『日本書紀』継体天皇21年(527年?6月3日条によると、近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅・喙己呑(とくことん)を再興して任那を合併しようとした。これに対して、筑紫君磐井が反逆を謀って実行する時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を勧められた。そこで磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致した。そしてついに毛野軍と戦いになり、その渡航を遮ったという。
亦、継体天皇22年(528年?)11月11日条によると、磐井は筑紫御井郡(現在の福岡県三井郡大部分と久留米市中央部)において、朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火の軍と交戦したが、激しい戦いの末に麁鹿火に斬られた。そして同年12月、磐井の子の筑紫葛子は死罪を免れるため糟屋屯倉(現在の福岡県糟屋郡・福岡市東区)を朝廷に献じたという。
簡単に述べると、磐井が新羅と共同して大和朝廷に反乱を起こして、大和朝廷の物部麁鹿火に破れた。これを磐井の反乱と言われている。
しかしこれは騙りだと思う。磐井王国と大和王国との戦いであって、どちらかと云うと大和王国の一方的な侵略だと考えられる。
この岩戸山古墳は宮内庁管轄で未だに発掘調査は行われていない。学術的発掘調査があれあば日本史が変わるぐらいの真実が覆い隠されているとある考古学者は述べていた。
今は広い草で覆われた広場にレプリカの石人・石馬が古代磐井王国を偲んで佇んでいる。
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